ブログトップ

奈良県宗教人の会

syukyoji.exblog.jp

<   2006年 12月 ( 2 )   > この月の画像一覧

いま憲法9条をー宗教者は語るー日本聖公会・正義と平和委員会委員長 谷 昌二さん


沖縄の痛みと共に生きる

 日本国憲法の一番大切なところは、人権を保障し、国民一人ひとりを大切にするところにあると思います。政府が国民を兵力として使い、その兵士が人の命を奪うことをさせないのが九条です。九九条の公務員の憲法尊重擁護義務の規定に、義務の担い手として「国民」が入っていないのは、人権擁護の精神を背景に、憲法は国民が国家に守らせるものだということを示しています。

 イエスは、貧しい人、虐げられた人、小さくされた人と共に生きながら、その痛みを背負い、その病を癒やし、神はどんな人をも一人ひとり無限に大事にしていると教えました。憲法はまさに私たちの信仰が求める国のあり方を示すものです。アジア諸国民と日本の国民が被った惨禍と引き換えに与えられた、世界でも貴重な憲法です。

 改憲派は憲法のあり方を逆転させ、国民に憲法を守らせることで義務を押しっけ、国家の兵力として取り込もうとしています。再び国家主導で国民を戦争の道具にするような憲法にして
はならないと思います。

今でも基地被害

 私は八年前に京都から沖縄にやってきて、今やっと「沖縄の痛み」が分かってきました。
 沖縄は戦争末期の地上戦でさんざん痛めつけられました。戦後の講和・独立に際しては本土から切り離されアメリカの軍事基地とされました。
 一九七二年の本土復帰のときには「あの憲法の下に帰ろう」というスローガンのもと大いに期待が膨らみましたが、「無条件復帰・基地撤去」という県民の思いは裏切られました。基地は残り、その後も強化されつづけてきました。今でもイラク戦争の出撃拠点とされています。米兵による犯罪や事故をはじめ基地被害に苦しみ続けています。
 戦後一度も九条がその道りに適用されたことがないー その強い思いのある沖縄で憲法を語るのは、なかなか難しい面があります。います。

 しかし、沖縄で九条を守ることは、痛みを持つ者がはっきりと自覚して、二度とこういうことをやってはいけないのだということで、切実さと特別の重みがあります。いま、名護市辺野古で米軍の新基地建設に反対してすわり込みをしているおじい、おばあたちも「孫たちに同じ思いをさせ
ない」と言ってがんばって  私は、九条から取り残されてきた沖縄の痛みが分からずにきたことに気づいたとき、アジアの痛みにも十分思いを致してきただろうかと自問しました。そこを押さえて、侵略戦争への反省、アジア諸国への謝罪の意識を確立していかないと平和憲法の精神も生きてこないと思います。

真の平和めざす

 イエスの人生は、排除され、痛めつけられている人間と共に生き、共に立ちあがっていくことが人類の平和を実現する確かな道だと教えています。信仰は社会とのかかわりの中にあり、弱者に共感し、学びながら真の平和を目指して個人を変え、社会を変えていくものです。
 聖公会では、憲法改定の動きに対して二〇〇四年の総会で反対の決議をあげ、「正義と平和委員会」を中心に活動してきました。私個人もこれから「九条の会」に参加するなど、幅広い人々の共働に向けて真剣に努力したいと患っています。




 たに しょうじ1941年、奈良県生まれ。京都大学経済学部卒業。近畿日本鉄道に勤務ののち東京聖公会神学院で神学を学ぶ。72年から98年まで京都教区牧師。98年から沖縄教区主教。2002年から現職。
  
[PR]
by n-syukyojin | 2006-12-31 13:02

いま憲法9条を宗教者は語るー 「信頼」基礎に平和めざす 富山大学名誉教授 中本昌年さん 

 私は浄土真宗の開祖・親鸞の教えに学んできました。いま親鸞はじめ仏教の教義を抽象的にではなく、現実の改憲や国家の動きとの関係でより具体的に考えることが大事だと患います。

 日本国憲法の素晴らしさはアジアと世界の国々に対して開かれているところにあると思います。開かれているというのは人類の深いところにある平和への願いを表現しているからです。
 それが憲法のどこに表れているかというと、憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」という文言です。そしてその理念を具体的な形にしたものが九条の「戦力不保持」と「交戦権の否認」です。

 個々の命はみなそれぞれで生きなければなりません。そこから命は利己的になってしまうという面が生まれます。他方、浄土真宗で七人の高僧の一人とされる源信は、「地獄」とは、同伴者のない孤独だと言っています。

他者と支えあい

 つまり、命は深いところで、他者と支えあっています。命は他者によって補われてはじめて命として成り立ちます。孤独は命の否定なのです。宗教は他者とともにありたいという人間の、あるいは命の根源的な願いに向かい合っており、それゆえ宗教は本来的に平和と不可分な関にあるのです。

 人間が戦争を繰り返しながら長い歴史を生きのびてこられたのは、人々の平和の願い、公正と信義への信頼があったからです。
 ところが人類は現代において、命の利己的な面の最も極端な現れである核兵器を出現させました。「ラッセル・アインシュタイン宣言」(一九五五年)は、「人類は核兵器と共存できない」と警告を発しました。生命の根源である地球も危機に面することになりました。

人類共存の原理 

 日本は唯一、核兵器を使用された国です。その体験によって、人類死滅の危機を回避するという課題に立ち向かうことになったのです。それが憲法を生み出した大きなエネルギーでした。
 人類が共存できる原理は何かという問題に出合い、その答えとして「信頼」という精神に出合ったのです。武力でも核兵器でもなく、平和を愛する諸国民への「信頼」を力にするということです。憲法九条とその大本にある信頼の原理は、日本だけのことではなく、人類全体がそこへと進まざるを得ない歴史的使命と課題を表すものです。

 改憲派は「公正と信義に信頼」という言葉を「空想だ」などと攻撃しています。しかし、この「信頼」は単純に出てきたものではなく、人類の全歴史を背景にしているのです。自民党の「新憲法草案」のように侵柊戦争への反省を投げ捨て、隣国を敵視し、自分だけが生き残ろうとするよう
な、世界に対し「閉じた」憲法に変えることこそ時代錯誤にほかなりません。

 哲学はどこまでも疑うことを旨としますが、宗教は信義と可能性に向け自らの生のすべてを委ねるものです。信頼を基礎に平和を目指すという九条の可能性を否定してしまうことは、信仰をも否定するものだと私は考えます。




 なかもと まさとし1940年石川県生まれ。東京都立大学大学院修了(哲学)。親鸞と清沢満之の仏教思想を中心に生きることを学ぶ崇信学舎の同人。「憲法九条in富山」呼びかけ人

 <しんぶん赤旗>2006年12月20日付
[PR]
by n-syukyojin | 2006-12-20 13:00